top of page

GROUP ANCHORA

Group Anchoraとして初の試みですが、チャリティーを主眼としたコンサートを開催する事になりました。
今年の6月5日(金)に添付のフライヤーに明記されている通り、
イグナチオからもほど近い紀尾井町サロンホールで行われます。
演奏はご自身も熱心なカトリック教徒であるピアニストの西澤安澄さんで、今年生誕150周年をむかえるファリャを中心に祈りの気持ち溢れる楽曲をプログラムに組んで頂きました。
本場スペインでファリャの遺族からも高く評価される西澤さんは「私の曲は善きキリスト者に弾かれ聴かれて欲しい・・・」との言葉を残したファリャに相応しいピアニスト。
定員わずか80名限定の貴重なコンサート。ぜひお聴きいただきたい貴重な機会です。
西澤さんが所属する調布サレジオ会の神父様たちも参加してくださる予定です。
今回の収益は必要経費を除いた純益を神父たちのご活動に当てていただきます。
​コンサート前には私たちの指導司祭であるフランツ・ハム神父様によるごミサを行います。
チケットをご希望される方は下のアドレスから、コンサート希望と人数とお名前・ご連絡先を明記してお送りください。後ほどご案内差し上げます。

霊的指導者として、哲学者として、大学教授として、また日本文化におけるキリスト教の在り方について深く考察されたクラウス・リーゼンフーバー神父様の功績を伝え広く知らしめるために、神父様の教えを受けたカトリック教徒が中心となって自主的に立ち上げたグループのホームページです。

リーゼンフーバー神父様と関係の深い神父様たちの協力を得て、ラテン語講座・黙想会・主の祈りを読み解く講座等、リーゼンフーバー先生の提唱を聴いて座る座禅会(不定期)など数々の集まりを行っています。

皆さんのご参加をお待ちしています。各種講座も黙想会も途中参加可能、お気軽に​下記のアドレスにお問い合わせください。

​皆さんの上に主のお恵みが豊かにありますように。

Nishizawa_anchoraFlyer_2.jpg

​Group Anchora主催の講座・黙想会

Group Anchoraでは随時、神父様・神学者の指導による講座・黙想会などを行っています。

​洗礼を受けていない方も含めてどなたでもご参加いただけます。

参加費は、宿泊を伴う黙想会のような場合をのぞいて基本無料です。

​参加を希望される方は下記アドレスまでご連絡ください。

会場は特に変更がない場合、基本的に​上智大学内のSJハウスとクルトゥルハイム聖堂になります。

◎3月28日(土)・ホアン.マシア神父様による
『日帰り黙想会』と​ごミサを行います。

3月28日(土)、10時から上智大学構内・SJハウス第5応接室においてホアン・マシア神父様の『日帰り黙想会』を開催します。毎回多くの方にご出席いただき、その高い霊性で導いてくださるマシア神父様の黙想会は深い感動を喚起してくださいます。

終了後は、クルトゥルハイム2階の聖堂においてマシア神父様によるごミサを行います。

時間の都合がつかない方はミサのみのご参加も可能です。

参加を希望される方は下記アドレスからお名前と人数をお知らせください。

​洗礼者ヨハネ(Da Vinci)

​Library
(日々の配信・3月第4週)

Deliverd Daily

リーゼンフーバー神父様の行われたご講義の録音からテープ起こしした毎日の配信を、

週に1回程度まとめて配信していきます。

キリスト教入門講座 イエスの死---その救済的意義

 じゃ、そしてこれは、あのー、もっと地味な形で本質的に全く同じですが、マタイ、マルコ、ルカにもあるわけですね。それはイエスとの関係は、これは、“神との関係“となってるんだ。ここでは、その、“究極的な完成“、“救い“が実現されるんだ、ということになってるわけですね。
 そしたら、そこで、ヨハネが強調するのは,あの、特に1章あたりですね。色々な人々を弟子にするわけですね。そしたら、そこで、ま、一緒に1つの、ま、同じようなことが現れてきます。だれかが、イエスを自分の友達とか、自分の兄弟とかに紹介してるんだ。そして、まあ、そういう人は、あんまり積極的ではないかもしれませんけど。“じゃ、来てごらんなさい“。そしたら、彼をイエスへと連れて行くんだ。だから,人との関係を通して、まずイエスを知ってて、しかし、そこから、“イエスとの直接の関係“に入る、ということになるわけです。そこで、イエスは振り向いて、彼を見て、声をかけたりする、とか。ペトロ、とか、ですね、ナタナエル。つまり、その信仰は、“イエスとの1対1関係“から始まるんだ、ということになるわけですね。全面的にそこで、イエスがわたくしを知ってるんだ、というふうに、1章の終わり、ナタナエルのほう、ですね。そして、わたくしは、彼を通して本当の自己理解を得てるんだ。そこで、イエスについていくことを通して、それは、なんか、“神との関係“になるんだ、ということですね。じゃ、そういう、現在的な“終末“と、共に、その、“イエスとの直接な、個人的なつながり“を得る、ということですね。
 そしたら、そこでは、ま、イエスはどういうような存在として、なんか、顕れてくるのか?ですね。あの、ヨハネ福音書の中には、イエスが、よく、たとえば、“わたくしは命だ“、とか、“わたくしは復活だ“、とか、“わたくしはぶどうの木だ“、とか、ですね。“わたくしは生けるパンだ“、とか”わたくしはこれこれある”という表現をよくやるわけですね。
 そしたら、それは、その、普通のもの、パン、とかですね。あるいは、命、とか、その完全性は、そこで、わたくしはその一例であるという意味ではなくてですね。わたくしは、そういう、パンを通して、私たちを理解する完全性、そのものだ、ということですね。だから、すべてのものが、その、イエスの、本当の、その本質的な在り方を暗示してるんだ。“世界“の中に“言葉“、その、福音の言葉で言えば、全てがわたくしを証してるんだ。つまり、全てが、その“善さ“、とか、その完全性を通しては、なんか、わたくしは何なのか、を示してくれるんだ、ということですね。
 だから、「わたくしはぶどうの木だ」と、15章の1節で、言ってるんですが、ま、ぶどうの木、これは、その畑とか、それはイスラエル人たち、ま、最も良い植物ですが、最も好まれた、そこでぶどう、また、ぶどう酒が、出てくる。
 そしたら、普通のぶどうの木、の中に、私たちは何とか、味わってるとか、そういう完全性は、これは、普通のぶどうの木の中には、限定された、有限的な形でしかないわけですね。しかし、そこで私たちは、本当は、感じ取ってるのは、ああ、喜びそのもの、充満さそのものだ、ということで、そしたら、“まことのぶどうの木“とかと言ったら、そこで、そういう、ふつうのぶどうの木の中に、萌芽的に、ま、暗示されてる、その完全性、これは、もともとの形で、根源的な形で、わたくしの内にあるんだ。だから、わたくし自身は、人の喜びそのもの、となる、とか、それは、ヨハネの15章の11節では、え、「わたくしが、こういうことを話したのは、わたくしの喜びがあなた方の内にあって、あなた方の喜びが完全なものであるためだ」とか。そういうふうに、あるいは、イエスは、その、自分がその“永遠の命だ“と言ってですね。私たちの今の命は限られたものですが、そしたら、しかしその中には、“命“の素晴らしさ、を理解して、“命“の持ち主は、もともと“神“自身ですね。“純粋な命“そのもの。そしたら、“神“が自分の内に、“命“そのものであるとともに、“子“、イエスにも、同じように、自分の内に“命“そのものを持っているということを与えた。だから、その、有限的なレベルでは、限られた形にあるような、そういうよいもの、その完全性、これは、もともと完全な形、“神“のうちにあって、そして、“神“の内にあることのすべては、イエスの内にもあって、イエスが私たちにそれを与えてくださるんだ、ということですね。(22日配信)

 じゃ、そこでは、その“神“は、あるいはそのイエスは、たとえば、どういうふうに表現されてるのか?ま、あの、“わたくしはこれこれで在る“、ということだけではなくて、“わたくしは在る“と、イエスは時々言ってます。ヨハネ福音書な中で。あるいは、“わたくしは、それだ“、と、同じ、翻訳だけが違う。それは、旧約の中には、なんか、モーゼが神から遣わされて、イスラエル人たちをエジプトから導き出すはずですが、えー、それは、わたくしに出来ないんだ、彼は言って、あなたは、わたくしに、その命令を与える“神“よ、あなたは誰なのか?“神“の答えは、“わたくしは在る“。“わたくしは在る“ということは、これはわたくしの名前だ“と、言ってるわけですね。だから、そこから、イスラエル人たちは、“神“は、存在そのもの“、“在る“ことそのもの“、こうあったり、あああったりする、変わったりするものではなくて、“在ることものそのもの“だ。
 そして、と、ともに、“在る“ということは、これは、“いる“という、同じ言葉ですが、それは、“共にいる“、“そばにいる“、だから、“神“は、“わたくしは存在である“、とともに、“わたくしは、モーゼ、あなたとともにいるんだ、導くんだ“、とか。そして、イエスは、同じ、その、“わたくしは在る“ということを、これは、“わたくしに在るんだ“。先程のヨハネの8章の28節、「あなた方が、わたくしを十字架へと挙げたときに、そしたら、わたくしは在るということをわかるだろう」。まぁ、イエスがいるということは、べつに十字架がなくてもわかるわけです。しかし、“わたくしは在る“ということは、“わたくしは神の現存“、“神の顕れ“だ、ということですね。
 そしてその延長線では、“わたくしは命そのものだ“、とか、“わたくしは生けるパンだ“、とかですね。そういう、“わたくしはその泉だ“、“水の泉だ“とか。旧約の中に、なんか、その“救い“を暗示する、“救い“が始まるような、いろいろな出来事が,ま、暗示されていて、たとえば水、ま、乾く、人々は荒野で乾いてるわけですが、そして、モーゼが、まぁ、その棒を石に当てて、岩に当てて、水が流れ出る。そして、そこから、イエスも、“はい、わたくしを信じるものが、わたくしの脇から水を飲む“と言ってる。つまり、そういう、旧約の、その生きた水がほとばしって、“その岩は、わたくしだ“、“わたくしは,その水の泉だ“、とか。あるいは旧約では、“神“が、なんか、パンのようことを荒野で降らしてくれて、“わたくしは、その、神が与えるパンだ“、とか、ですね。
 つまり、旧約全部は、イエスに収斂していて、旧約の、そのいろいろな、その、“救い“を暗示するところは、これは、今、イエスの内には実態的に本質的に実現されてるんだ、ということ。その旧約全部は、イエスの方へと、ま、向かっていくんだ、ということは、明確にされてます。それは、あのー、旧約の著者、主な著者はモーゼだ。そして、イエスは、“モーゼがわたくしについて証してるんだ“、モーゼがわたくしについて書いたんだ、と言ってる。つまり旧約聖書全体は、意味としては、わたくしを指してるんだ、ということですね。あるいは、イザヤが、こうこう、こう、言ってますけれども、イザヤ、預言者たちを代表してるんですね。これは、やっぱり、“わたくしに対する証となってるんだ“。その、旧約の預言者とか、指導者たちとか、それは、全部、イエスの方へと向いていて、イエスの方を指して、そして、乗り越えられるということになるわけですね。
 じゃ、そこで、その旧約の完成になってますが、あのー、あるいはイエスは、あの、“この神殿を壊したら、三日間でわたくしは建て直すんだ“、と言ってるわけですね。あなたはそれは、どういうふうにやるのか。そしてイエスは、弟子たちを後で思い出して、それはイエスが自分の体について 言った。つまり“あなたはがたは、わたくしを壊すんだったら、イエスの“死“、そして、3日目で建を直す。その復活になるんだ“ 。旧約の、いろいろな、その“救い“の象徴、はじまりというものは、今、イエスの内に完成して、実体的にできてる、ということですね。
 そしたらそれは、あるいは、その羊、洗礼者ヨハネは、イエスが歩いているところ、「ああ、見てごらん、これは神の子だ」。「子羊だ」、それは、やっぱりその、“神“との和解、で、捧げられるものだ。だから、そこで、イエスは、“神“との和解で自分自身を捧げてるんだ、ということ。全ては、電話なるべくイエスに尽きるということになるわけですね。

​(23日配信)

LINK(それぞれのページにリンクしています。)

​●上智大学・中世思想研究所(Sophia University Institute of Medieval Thought Official Website)

​リーゼンフーバー神父様が所長を務めていた中世思想研究所のページです

​●イエズス会日本管区

​リーゼンフーバー神父様が所属していたイエズス会の日本管区のページです

​●イグナチオ教会

​イグナチオ教会の情報

​●リーゼンフーバー先生記念ページ

中世思想研究所内のリーゼンフーバー先生を顕彰するページです。

GROUP ANCHORA

©2024 Anchora Faith。Wix.com で作成されました。

bottom of page