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Über Riesenhuber und Group Anchora
 

リーゼンフーバー神父様と
グループアンコラについて

霊的指導者として日本に多大な功績を残し、多くの人を導いたクラウス・リーゼンフーバー神父様が伝えた信仰と霊性を継承しつつ、カトリック信仰を深化するグループです。

神父様が残された瞑想やお言葉から文字起ししたモノを定期的にアップしています。

​リーゼンフーバー神父様の最後の授業

2009年2月に行われた神父様の先生の最終講義の様子です。リンクボタンからご覧になれます。
講演タイトル「時間です! 時の声―自己の誕生」

​リーゼンフーバー神父様のご葬儀ミサの様子
hebraea 01.jpg
12月22日(日)、ハム神父様によるラテン語講座と
​クリスマス・ミサ
 

12月22日(日)、グループアンコラを導いてくださっているハム神父様の教会ラテン語講座とクリスマスミサを開催いたします。

広くキリスト教の知識と歴史的背景、現代史の中でのあり方までお話ししていただきます。

参加希望される方は、下記アドレスよりまでメールでお申し込みください。

講座に間に合わない方はごミサのみの参列も可能です。

​ごミサは15時からの予定です。

被昇天Greco.jpg
日時:11月10日(日)12時より
場所:上智大学内SJハウス第5応接室、
   午後3時からクルトゥルハイムにてごミサ
内容:ハム神父様に教会ラテン語講座とごミサ
​   ご参加を希望される方はgroupanchora@gmail.comまで
​   メールでご連絡ください。​
Hamm03.jpg

​ホアン・マシア神父様の日帰り黙想会は「黙想会」が初めての方でも参加できます。

マシア神父様のお導きで、静かな瞑想の中で霊性に触れイエズスと出会いましょう。

​日時 7月20日(土曜日) 10:00より
​場所 上智大学内SJハウス第五応接室
瞑想会終了後にクルトゥルハイムにてごミサ

ごミサのみの参加も可能です。参加希望の方はグループアンコラのメールにてご連絡ください。

瞑想会はお昼をまたいで行います。各自昼食をご良いください。

​用意が出来ない方は、主催者がご用意いたします。(実費1000円程度)

​Anchora Group [groupanchora@gmail.com]

マシア神父01.jpg

音声・映像配信

グループアンコラの集まりで行われた御ミサや御講話、

先生の残された映像などを配信します。

​Library
(日々の配信)

リーゼンフーバー神父様の行われた黙想会はご講義の録音からテープ起こしした、モノを日々配信していきます。

1度配信した内容は約1カ月程度掲載します。それぞれドラッグ&ペーストでTEXT等の保存しお役立てください

会社帰りの黙想・「放蕩息子」のたとえ2
​レンブラント「放蕩息子の帰還」
 すべてを失い、自分自身をも失いかけ、追い詰められた様子  の放蕩息子。
 上質だった衣服もボロボロになり、足の裏も傷だらけでまるで自分自身を傷つける生活をしてきたことをうかがわせる。
放蕩息子レンブラント_edited.jpg

 第2の黙想は第1の黙想の後半と言っていいんですが、直接の続きになります。

 

『ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 そこで、僕(しもべ)の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 僕は言った。「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」

兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 しかし、兄は父親に言った。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」 すると、父親は言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』

 

 まぁ、イエスはその譬えを言ったのは、そのきっかけだったのは、イエスは徴税人達とか、そういう公の罪人たちと宴会をやったんですね。そしてファリサイ人たちはそれを見て、どうして彼は悪い人たちと一緒に喜ぶのか、と言う事ですね。そしてここでファリサイ人はもしかしたら、これは、ここで、その「兄」に代表されているわけですね。その兄はやっぱりこういう悪い弟は何の関係もない。自分の弟だとも言ってなくて、「あなたの息子だ」と言っているわけです。父親の答えでは「あなたの弟だ」と言うことになっています。そういう、なんか、自分が他の人よりも喜ばれているんだと。これは兄にとって辛い、耐えられない、悪いことを全然やったことないのに、こういう悪い人がおおいに大切にされて喜ばれているだということですね。なんか、父親は、なんか、「あなたがずっとわたくしと共にいるんじゃないか。わたくしの全てはあなたのものだ」という「その意味がわからないのか?」。あるいはただただ自分の誉れだけを、自分の名誉をだけを求めているのか、と言うことになるんですね。

 なんか、誰かよくなったら、誰か思い直して本当に純粋な心でもって神に帰って赦しを願うんでしたら、そしたら、まわりの人たちは、なんか、そういう方が、いくらでも神に喜ばれているんだ。

 それで、比較することなく神と共に喜ぶ、自分自身のことを忘れて。神自身も自分自身のことを忘れているかのよう、と同じですね。そしてそこでそういう憐れみは、正しさに勝るんだ。

 そういうふうに、神が人を清めて赦してくださる。これは、なんか、そういう人がわたくしよりもいくらでも大きくなっても良いのだ、と言うことです。自分が第一のものである、その必要はちっともない。神の寛大さと心を合わせる、自己主張なしに。そこでは彼は、なんか、弟を新しく弟として向かい入れるはずじゃないか。

 なんか、実際にその兄は家に入りたくない。それは前の弟の態度だったんですね。

そして、ここで父親はからまれても、彼は断ろうとしているわけですね。まさに、彼は今、その放蕩息子になってしまいがちだと言う事はあるわけです。その神の憐れみ、神の愛、そういう当たり前、しかし最も純粋なもの、それに乗っていかないから。自分の傲慢とか、自己主張でとらわれてしまう。これは、弟が自分の欲求だったかもしれませんが、彼のほうには、なんか、自分の傲りで。いや、何も持たないままで神と共に感じる、神と共にいさせていただく。働きながらでも宴会を祝いながらでも。そういうことができたら、そこでは神のもとには罪人も、そうじゃない人も、全く1つの心、1つの家族になる。

 「あなた方は皆兄弟だ」と、イエスは言っています。「あなた方にはみんな同じ違いますから」。

 私たちは、あるいはどういうふうに、神に迎え入れていただくのか、それを少し考えて放蕩息子の形でもいいし、あるいはそこで本当に、なんか、その罪人たちが助かるということ、それは大いに喜んだら、ここでは本当の父親の息子になるのではないか。

 「心の頑さを捨てる!」ということで、そして、共になる、父親と共になることと、罪人と共になることは、これは一つになっているのではないか。

 少し自分の心の態度を省みましょうか。

 

 終わりに近づいて、神が私たちひとりひとりには、どういう心持ちで人を見て、どういうふうに神を信頼したらいいのか、それを教えて下さるようお願いしながら、もう一度演奏を聴かせていただきましょう。どうぞよろしくお願いいたします。

 

僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 僕は言った。「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 しかし、兄は父親に言った。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」

すると、父親は言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか・・・」

 

 まぁ、イエスはその譬えを言ったのは、そのきっかけだったのは、イエスは徴税人達とか、そういう公の罪人たちと宴会をやったんですね。そしてファリサイ人たちはそれを見て、どうして彼は悪い人たちと一緒に喜ぶのか、と言う事ですね。そしてここでファリサイ人はもしかしたら、これは、ここで、その「兄」に代表されているわけですね。その兄はやっぱりこういう悪い弟は何の関係もない。自分の弟だとも言ってなくて、「あなたの息子だ」と言っているわけです。父親の答えでは「あなたの弟だ」と言うことになっています。そういう、なんか、自分が他の人よりも喜ばれているんだと。これは兄にとって辛い、耐えられない、悪いことを全然やったことないのに、こういう悪い人がおおいに大切にされて喜ばれているんだということですね。なんか、父親は、「あなたがずっとわたくしと共にいるんじゃないか。わたくしの全てはあなたのものだ」という「その意味がわからないのか?」。あるいはただただ自分の誉れだけを、自分の名誉をだけを求めているのか、と言うことになるんですね。

 なんか、誰かよくなったら、誰か思い直して本当に純粋な心でもって神に帰って赦しを願うんでしたら、そしたら、まわりの人たちは、なんか、そういう方が、いくらでも神に喜ばれているんだ。

 それで、比較することなく!神と共に喜ぶ、自分自身のことを忘れて。神自身も自分自身のことを忘れているかのよう、と同じですね。そしてそこでそういう憐れみは、正しさに勝るんだ。

 そういうふうに、神が人を清めて赦してくださる。これは、なんか、そういう人がわたくしよりもいくらでも大きくなってもいいんだ、と言うことです。自分が第一のものである、その必要はちっともない。神の寛大さと心を合わせる、自己主張なしに。そこでは彼は、なんか、弟を新しく弟として迎え入れるはずじゃないか。

 なんか、実際にその兄は家に入りたくない。それは前の弟の態度だったんですね。

そして、ここで父親はからまれても、彼は断ろうとしているわけですね。まさに、彼は今、その放蕩息子になってしまいがちだと言う事はあるわけです。その神の憐れみ、神の愛、そういう当たり前、しかし最も純粋なもの、それに乗っていかないから。自分の傲慢とか、自己主張でとらわれてしまう。これは、弟が自分の欲求だったかもしれませんが、彼のほうには、なんか、自分の傲りで。いや、何も持たないままで神と共に感じる、神と共にいさせていただく。働きながらでも宴会を祝いながらでも。そういうことができたら、そこでは神のもとには罪人も、そうじゃない人も、全く1つの心、1つの家族になる。

 「あなた方は皆兄弟だ」と、イエスは言っています。

 私たちは、あるいはどういうふうに、神に迎え入れていただくのか、それを少し考えて放蕩息子の形でもいいし、あるいはそこで本当に、その罪人たちが助かるということ、それは大いに喜んだら、ここでは本当の父親の息子になるのではないか・・・

 心の頑さを捨てる!ということで、そして共になる、父親と共になることと、罪人と共になることは、これは一つになっているのではないか。

 少し自分の心の態度を省みましょうか。

 

 終わりに近づいて、神が私たちひとりひとりには、どういう心持ちで人を見て、どういうふうに神を信頼したらいいのか、それを教えて下さるようお願いしながら、もう一度演奏を聴かせていただきましょう。どうぞよろしくお願いいたします。

LINK(それぞれのページにリンクしています。)

​●上智大学・中世思想研究所(Sophia University Institute of Medieval Thought Official Website)

​リーゼンフーバー神父様が所長を務めていた中世思想研究所のページです

​●イエズス会日本管区

​リーゼンフーバー神父様が所属していたイエズス会の日本管区のページです

​●イグナチオ教会

​イグナチオ教会の情報

​●ようこそリーゼンフーバー神父のホームページへ

リーゼンフーバー神父様が残されたホームページです
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